行きと帰り…南禅寺
2020年 07月 30日
○温泉ザルの起源
スノーモンキーとして、あるいは温泉に入るサルとして、世界的に有名な地獄谷野猿公園のサルたち。雪とたわむれたり、温泉に入ったり、ケータイを使ったり、大活躍です。でも、夏には温泉に入りません。早く冬にならないかなぁ~、などと夏の盛りなのに思ったりします。
今回のお話は「温泉ザルの起源」です。地獄谷のサルたちも昔から温泉に入ったわけではありません。ではどうして入るようになったのか。話は1958年にさかのぼります。この頃にはまだ野猿公園はありません。
地獄谷の温泉旅館「後楽館」の女将(おかみ)、竹節春江さんから伊谷純一郎さんのところに一通の手紙が届きました。伊谷さんは京都大学のサル学の草創期から活躍している先生です。地獄谷には昔からサルがいたのですが――冬になるとエサがなくなるのでかわいそう、何とか助けてやりたい。エサを与えるにはどうしたらいいか。サルについて調査する人を派遣してほしい――手紙にはそんなことが書いてありました。竹節さんはたまたまテレビで伊谷さんのことを知って手紙を書いてみたのです。伊谷さん(京都大学霊長類研究グループ)は要請に基づいて研究者を派遣することにしました。このころすでに高崎山や幸島でのニホンザルの研究が始まっていましたが、京都大学は新たなフィールドを探していたのです。派遣されたのは当時大学院生だった和田一雄さんでした。
60年夏、和田さんは竹節さんの旅館に下宿しながら志賀高原を手当たり次第に歩きました。しかし、2、3ヶ月歩いてもまったくサルの姿を見かけなかったそうです。今でこそ、行けば必ずその姿を見られるわけですが、野生の動物を観察するのは容易ではありません。
成果が見えないまま冬が到来。冬になってようやく事態が好転します。エサが少なくなるのでサルが山から降りてきました。木々の葉っぱが落ちて見通しが利くようになります。雪が積もれば足跡が残るので追跡がしやすくなります。スキーも役だったそうです。冬の間の観察で、地獄谷にはサルの群が3つあることがわかりました。
こうしてサルの研究が始まりました。一方で、以前からサルの食害にあっていた地元のリンゴ農家からは、サルの群を1つ全部駆除するようにという申請が環境庁に出ていました。それが61年になって許可されてしまったのです。ジェジェジェっ!(もう古い?)大変です。和田さんたちと後楽館の竹節さん、長野電鉄、志賀高原の地主さんたちが相談して、対策としてサルの群が下流に降りてこないように、上流域で餌づけすることにしたのです。サルがリンゴを取らなければ殺されることはありません。旅館のすぐそばにリンゴを置きました。もともとリンゴを荒らしていたサルたちなので、わりとすぐにエサを食べるようになったそうです。そうして63年には餌づけが成功しました。
そして、この年(63年)に事件が起きました。後楽館の露天風呂の周りで係の人がリンゴを与えていました。そのとき、サルに投げてやったリンゴがたまたまお風呂の中に転がってしまいました。この場面には研究者の和田さんもいたそうです。何匹かのサルが落ちたリンゴに気づきました。取るべきか取らざるべきか、思案のしどころです。サルたちはしばらく躊躇していたそうです。すると、その中の1匹、1歳の子どもがリンゴの誘惑に負けて、ずるずると温泉の中に入っていきました。小ザルはリンゴをつかむとすぐに温泉から出てきました。
しかし、この小ザル、5分ほどするともどってきて再び温泉に入ったのです。リンゴはありません。なのに、しばし温泉につかったまま出てこない。この時、1歳の子どもザルは温泉の快楽に目覚めたのでした。
これはおもしろい。和田さんたちはわざとリンゴを温泉の中に入れてやるようにしました。それを繰り返していくうちに、1、2ヶ月で他のサルたちも入浴するようになりました。入浴の習慣が広がっていきます。そうなるともうリンゴは必要ありません。1匹の子どもザルの行動が群全体に広がっていくことになったのでした。世界に名だたる温泉ザルの誕生です。
いつの世でも世界を動かすのは子どもたち――強引ですが、そうまとめておきましょう。
(ゴリラとチンパンジーに続いて、ニホンザルの本を読んでみました。以上のお話は和田一雄『温泉ザル』からの紹介になります。)
by oitopontes
| 2020-07-30 06:36
| 京都
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